Habsburg Monarchy


こんにちは、佐々木麗美です。

この夏休みはハプスブルク家の栄華と世界遺産を辿ってきました。

もともとクリムトやミュシャの作品に興味があり、いつか「中欧」をと思っていましたが、ついに実現しました。

 

今回は、ハンガリーのブダペスト→スロバキアのブラチスラヴァ→チェコのプラハ→チェコのチェスキークルムロフ→オーストリアのハルシュタット→オーストリアのウィーンと周りました

 

まず驚いたことは、ウィーンの空港からバスに乗って走り出すと、道路の行き先表示板に片方は「プラハ」、もう一方は「ブダペスト」と書かれていました。

 

確かにオーストリアから見れば外国の町ではありますが、ウィーンからプラハまでは約300キロ(東京から豊橋位)、ブダペストまでは約250キロ(東京から浜松位)、思いの外近いことがわかります。しかしながら、1989年の東欧体制の転換以前は、実際の距離以上に遠く感じられたことでしょう。

 

特にウィーン、プラハ、ブダペストの三都はハプスブルク家の影響を受けながら相互の関連の中で発展し、非常に高い文化基準を保ちながら、今もなお、教育や経済的な面で周辺諸国に対して優位な立場に立っているようです。

ブダペスト、ブラチスラヴァ、プラハと進むうちに、全ての町で中欧の歴史を共有し、古き良き時代がまるで止まったままのような印象を受けました。

今でこそ観光客であふれていますが、一人ぽつんと取り残されたらタイムスリップしてしまったのではと錯覚をしてしまうほど、ゆったりとした時間が流れていました。

 

次にこれらは「川」と「王宮の丘」というように地形的に共通点があることに気が付きました。

 

これらの古都には日本でも合唱でおなじみの、ヨハン・シュトラウス作曲の「美しき青きドナウ」のドナウ川、スメタナ作曲の「モルダウ」のモルダウ川が流れていますが、昔、ドナウ川は流れが毎年のように変わったため橋をかけてもすぐに流されてしまい、ほとんど意味をなさなかったそうです。

そのためブダペストでは19世紀半ばまでブダ地区とペスト地区の両岸に町がはっきり分かれ、ドナウを渡るには舟をつないだ仮橋しかなかったようです。

一方、プラハでは14世紀にはすでにモルダウ川に世界最古と言われる石造りの橋(カレル橋)がかかっていました。

 

今もブダペストの王宮周辺は各国大使館や高級住宅地となっていました。反面プラハの王宮周辺は坂を下ってカレル橋まで行く途中には、旧市街地あり、そこには音楽学校があったり、サンタクロースの語源となった聖ミクラーシュ教会があったりと、いわゆる下町の雰囲気でにぎわっていました。

橋があるかないかで都市形成がこんなにも変わるものかと驚きました。

 

橋が登場したところで、建物の特色について少し触れておきます。

19世紀末から20世紀にかけて、フランスやベルギーでアールヌーヴォーと呼ばれた運動は、イギリスではモダン・スタイルとなり、ドイツではユーゲントシュティール、そして、それらの影響を受けウィーンではクリムトが若い芸術家とともにSecessionを結成し、より自由な芸術創造の権利を求める活動を起こし独自の様式を取り入れた町つくりがはじまりました。

 

同時期に建てられたアールヌーヴォー風の建築物もそれぞれの町で色や流行りの装飾が異なり独自の文化を取り入れられていたようです。

興味あることに、なんとウィーンでは家賃さえ払えば、一般市民でも王宮の中に住むこともできるそうです。

 

三都ではハプスブルク家の栄華が今もなお息づき、それぞれ町の風景や生活の一部として現在でも利用され上手く溶け込んでいます。地下鉄の駅や普通のレストランでもごく自然にクラッシック音楽が流れていました。

彼らの心底にはハプスブルク大帝国は健在であり、それを後世に伝えていくのは自分達の使命であると思っているのではないかと思います。

 

次の機会にクリムトのこと、ハプスブルク家の歴史をお伝えしたいと思います。

 

Habsburg Hoch!